【書と篆刻の講座『字がうまれたとき・書がうまれたとき』】


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今回は、書・篆刻ともに、それらがうまれた社会背景を学びつつ、技術を理論的に読み取る力をつけることで、実際に書く力へと結びつけます。
書と篆刻の技術――字を書く技術を段階的に学ぶ講座です。

書・篆刻ははじめてという方にもたのしんでいただける内容です。


開催日[篆刻]11:00-13:30 [書]15:00-17:30
*各回定員6名


1月13日・第2日曜日

2月10日・第2日曜日

3月17日・第3日曜日

4月21日・第3日曜日

5月12日・第2日曜日

6月16日・第3日曜日

※単発での参加も可能です


字がうまれたとき・書がうまれたとき


▼ 字がうまれたとき・書がうまれたとき

古代中国で漢字がつくられたときの様子を入口に、書がどのように人びとの間で発展してきたのかを紐解きながら、字と書の起源を想像し、書くための技術がどのように育まれてきたのかを学び、実際に篆刻では彫り、書では書いてみます。


01:篆刻・書ともに、古代文字を習います。


▼ 書の展開 祈りと装飾

書は、はじめ祈りの中で必要とされたものでした。

祈りは書をどのようにかたちづくったのでしょうか。

またそこに書くための技術はどのように展開したのでしょうか。

古代のひとびとの思想を想像しながら、彫ること・書くことを学びます。

02:篆刻・書ともに、金文を習います。


▼ 書の展開 ひとびとの間を生きる書

時代が進むにつれ、書のあり方も次第に変化していきました。

祈りから場から、ひとびとの間へ。実用としての書の展開を追います。

実用に際してダイナミックに書体は変化を続けます。

それにともなう技術の発展を観察しながら、

現代に繋がる書体の変遷を実際に書いて体験してみます。


03:篆刻・書ともに篆書体を習います。

04:篆刻:篆書体(白文) 書:隷書体

05:篆刻:篆書体(朱文) 書:行書体

06:篆刻:まとめ 書:楷書体


受講料 各回6,000円(材料費込)
※篆刻と書を通し受講の場合10,000円

問合せ・申込み kasetsu.ws〈at〉gmail.com(*〈at〉を@に変換ください)まで「氏名、電話番号、参加希望日・希望講座(篆刻・書)」をお送り下さい。ご連絡なく欠席の場合はキャンセル料を頂く事がございます。

会 場 和の器 韋駄天地下ギャラリー
〒110-0001台東区谷中5-2-24 tel.03-3828-1939
JR日暮里駅より徒歩5分/東京メトロ千代田線千駄木駅より徒歩9分

# by kasetsu_WS | 2019-01-15 19:25 | 【東京】書と篆刻の講座 | Comments(0)

文字と眼差し〈朝〉



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明け方、窓の外の空が白みはじめる。朝が来る。
わたしたちは、夜は必ず明け、朝が来ることを知っている。
次第に明るみはじめる空を眺めていると、古代のひとびとが夜が明ける様にどんなことを感じていたのかと、ふと思う。


今、わたしたちが目にすることができる最古の漢字は、黄河流域で発展した殷王朝の後期、前13世紀以降に記された甲骨文字だとされている。甲骨文字は、中国古代のことばの意味を文字のかたちとしてあらわした表意文字だ。

甲骨文字における「朝」の字は、上下に分けられた「艸」の間から「日」があらわれ、右側に「月」を置いたかたちで描かれている。それは、日が昇りはじめる空にまだ月影の残る様子を描くことで、早朝の意味をあらわしたと考えられている。
甲骨文字が用いられた殷王朝では、朝の祭祀で重要な政務が行われていた。朝廷ということばは、そこから生まれたといわれている。当時、王朝に仕えるひとびとは朝には日の出を迎え、政治上の様々を決定し、夕べには月を迎え、食事をしたという。
また甲骨文字の記録の中には、10日ごとに行われた祖先への祭祀の記録が残されている。

10日ごとに行われたという祭祀から、太陽にちなんだ逸話が思い浮かぶ。それは、古代中国の神話伝説を収めた地理書『山海経』にある、扶桑と呼ばれる神樹の話だ。

黒歯国の北に、湯のわく谷があり、湯の谷の上に扶桑という大木があった。そこは十個の太陽が水浴びをする場所だった。水の中に大木があった。九つの太陽は下の枝にいて、一個の太陽が今まさに昇ろうと、上の枝にいる。太陽はみんな烏の背に乗せられて昇っていく。
『山海経』第九海外東経

古代のひとびとは、冬は低く、夏は高い太陽の高さを測ることで季節の変化を知ろうとしたという。やがて人々の注意は、月の満ち欠けに注がれ、やがてそれが暦の発明につながってゆく。

「朝」の字のつくられ方に驚かされるのは、たった一文字の中に時間の移ろいが描かれていることだ。古代を生きた「誰か」は、夜が明ける朝という時を繰り返し過ごす中で、自らが生きる時もまた流れ行くものであることに思いを馳せるようになっていったのかもしれない。
そんなことを空想しながら、今日も確かに明けてゆく夜の不思議を思う。
(書・文 華雪)


# by kasetsu_WS | 2019-01-14 20:09 | エッセイ|文字と眼差し | Comments(0)

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林の中には、真っすぐのびた木、曲がりくねった木と表情いっぱいで、おもしろい。一本の樹木の存在にも、永劫の生命を感じる。こういう大自然の中にいると、樹木も私も同じ命を持っているという一体感がわきあがってくる。散歩をしていても、このねじ曲がった木になってみたらどんなにおもしろかろうかと思うと、新しい感慨が起こるのを禁じえない。夕方に出かけた時は、林の中のくずれかけたあずまやに腰をかけて、ゆっくり動いて行く月をながめることもある。
(鈴木大拙「散歩」より:鈴木大拙全集(稿補新版)三十五巻)


ゆったりとした黒い布がカーテンのように舞台を囲んでいる。
布の裾が膨らみ、身体の一部が舞台に現われる。
抑えた色合いのレオタードに包まれた身体が床をごろりごろりと転がる。
ひとりがふたりになり、ふたりが三人へと増えていく。だがそのリズムはひとりずつ異なっている。
ごろ、り。ごろり。ご、ろ、り。
身体を転げるのは、肢体になんらか障碍があるひとたちだ。身体を転がすために動かせる場所がひとりずつ違っていることで、ごろりのリズムがそれぞれ異なるのだと気づく。
腰の反動で動くひと、先端のない丸くなった腕で身体を押し上げるひと。頬と首だけの力で、身体を揺らすひと。せりふはない。


劇団態変は金滿里さんが主宰する身体障碍者にしか演じられない表現を追究するパフォーマンスグループだ。障碍を抱える金さんとメンバーは身体のかたちがあらわになるレオタードを纏い、さまざまに舞台上で動き回る。金さんたちは常に身体障碍を表現につなげ、舞台をつくり上げる試みを続けている。

彼らが動くと舞台上をスポットライトが、ひとりずつのスピードとリズムに合わせて、身体に寄り添うように付いていく。
そのすこしだけ遅れるライトの動きのおかげで、目の前のことを咀嚼するひとときが与えられている気がする。
頬から首をテコに、そのひとは上腕までしかない両腕と両足のない胴を転がし、一回、二回、三回と床を転がりながら現れた。
舞台の中央近くに来ると、なにかし終えたふうに、頬を床にぴたりとつけたまま、ゆっくり目を閉じた。
黒い床板にひととき動かないでいるそのひとの滑らかな肌が際立つ。
しばらくして、スポットライトのせいか眩しそうに開かれた目からは汗なのか涙なのか、光るものがあるように見えた。
それからそのひとは深く息をついた。
激しい動きにつれて吐き出されただけなのかもしれなかったが、最前列の席にいたわたしには、彼女の感情が一気に吐き出されたように思えた。

暗転を繰り返しながら、舞台の上では緩やかに”物語”は進む。
時々、次の居場所にたどり着いていない演者を近くにいる別の演者が身体で押している姿に目が留まる。
一幕が終わるたび、演者たちは出てきた黒いカーテンの内側へと戻っていく。彼らはカーテンの傍までたどり着くと、自力でカーテンの中へ潜ろうとする。その絶妙のタイミングですっとカーテンが彼らを包むようにふくらんで迎え、カーテンの中に引き入れる。


                  *


感動したり、昂揚するのは意外に楽なことなのかもしれない――劇団態変の舞台を前にすると、簡単に感動することは許されないような思いがこみ上げる。自分がどうして今その気分にたどり着いたのか。そこに至るまでの気持ちの動きをたどり直し確かめることの必要性を、金さんたちの表現やあり方が、わたしたちに知らせてくれているような気がしてならない。
わたしはなにを見ているのだろう。いま感じていることばにならないものを考え続けることがきっとたいせつなのだろう。そんなことを考えながら、夜道を歩く。ふと街灯に照らされた街路樹が目に入る。連なる木々は、じつに様々な姿で立っている。枝を短く剪定された木、あちこちにこぶのある木、幹がねじれた木――その姿に、態変のメンバーの姿が重なる。障碍とはなにか、健常とはなにかと問いかける、声なき声が聞こえてくる。

(2018・7・7)


# by kasetsu_WS | 2018-07-20 00:17 | それはかならずしも遠方とはかぎらない | Comments(0)
開催日[篆刻]11:00-13:30 [書]15:00-17:30
*各回定員6名

7月15日(日)/ 8月26日(日)

9月9日(日)/ 11月18日(日)→変更 11月11日(日)

12月16日(日)


【篆刻の講座|甲骨文字を彫る】

現在、わたしたちが目にすることができるもっとも古い漢字の姿は、3300年前に存在した古代殷王朝で用いられていた甲骨文字にたどりつきます。
素朴でありながら、同時に洗練の気配を感じる文字のたたずまいは、今なおわたしたちの目を魅きつけます。
古代中国の慣習・文化などを紐解きながら、文字としての甲骨文字の造られ方・彫り方など多方面から解説し、毎回、テーマに沿ったことばから甲骨文字を実際に石に刻み、印として仕立てます。

01 夏のことば
02 中国古代の詩
03 秋のことば
04 禅語のことば
05 吉祥のことば


【書の講座|手の運動としての書】

書をかたちづくる要素はいくつかありますが、その中でも手の運動は欠かすことのできないものです。
心理学では、子どもたちが行う線描の表現の特徴や発達に、古代のひとびとの行った線描のそれと共通の特徴を見出す研究があります。
書を、手の運動の発達として見たときに浮かび上がるのは、そこに重ねられる書き手の思考の変遷と深まりです。

運動と思考がからまりあいながら、どのような書を生み出してきたのか。
歴史的な背景と当時の書の「書き方」を学びます。

最終回の12月には総まとめとして、学んだ「書き方」を用いて、吉祥のことばを書く作品制作を行います。

01 象形文字の「書き方」:殷・周
02 篆書の「書き方」:春秋戦国から秦へ 
03 隷書の「書き方」:漢
04 楷行草の「書き方」:漢から六朝へ
05 作品制作:吉祥のことばを書く


受講料 各回6,000円(材料費込)
※篆刻と書を通し受講の場合10,000円

問合せ・申込み kasetsu.ws〈at〉gmail.com(*〈at〉を@に変換ください)まで「氏名、電話番号、参加希望日・希望講座(篆刻・書)」をお送り下さい。ご連絡なく欠席の場合はキャンセル料を頂く事がございます。

会 場 和の器 韋駄天地下ギャラリー
〒110-0001台東区谷中5-2-24 tel.03-3828-1939
JR日暮里駅より徒歩5分/東京メトロ千代田線千駄木駅より徒歩9分

# by kasetsu_WS | 2018-07-20 00:09 | 【東京】書と篆刻の講座 | Comments(0)

文字と眼差し『民』

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「一字書」――漢字一文字を書く表現をはじめてから30年以上が過ぎた。書、そして「一字書」に興味を持ったきっかけは、幼い頃に通いはじめた書道教室の先生との出会いだった。週に一度の教室では、課題の字を半紙に書く習字が中心だったが、それとは別に、学校で習ったばかりの漢字のなりたちを教わる時間があった。

漢字のルーツをたどると、およそ3300年前の古代中国の殷王朝で用いられていた甲骨文字に行き着く。甲骨文字は、文字通り、刃物で亀の腹の甲羅に小さく刻まれたもので、子ども心に、絵のようでもありながら文字である独特な”かたち”に強く惹かれた。甲骨文字の”かたち”は、遠く古い時代の「誰か」が、その目の前の物事や出来事をどんなふうに見ていたのか、その眼差しのあり方が現われているように思えた。そんな「誰か」の眼差しは、ときに今を生きる私たちの社会のあり方を照らし出す。

「目」の甲骨文字は、目のかたちに基づいて目そのもの――アーモンド形の輪郭の中に、黒目と白目があるかたちを模して描かれている。
目が何かを見ようとするときの文字は、大きく描いた「目」の下に、人体を表す「儿」を加える。古代中国の文字は、字の意味にとって特徴的なものを大きく上に掲げるように配置されていることが多い。つまり「見」の文字は、ひとが何か見るときの「目」を使う様子を捉え、目のかたちが大きく上に描かれている。ただ、ここで表されている”見る”ことの感覚は、今とは少なからず異なるものだと気づく。

その感覚は、「相」の字のなりたちから具体的に思い描くことができる。
「相」の字は、「木」の隣に「目」が置かれ、木を見る目が描かれている。けれど、ここに表されているのは、ただ「木」を見ているひとの「目」だけではない。木をじっと見つめることで、その木が持つ生命力を自分の内に受け取りたい「誰か」の思いでもある。  
古代を生きた「誰か」にとって見るという行いは、漠然と視界に映るものを見るのではなく、相手や対象を凝視し、その内へと分け入るような感覚を伴っていたのであろう。そうした感覚が、頭部がすべて目になったひとを描いた「見」という字の、一見奇妙なかたちを生み出したのかもしれない。

最近、「目」にまつわる字をめぐって考えることが増えている。そのひとつに「民」がある。「民」の字のなりたちは、眼球を傷つけ、視力を損なわせる様子が描かれたものだ。
本来、「民」とは神に捧げられた徒隷を指し、それが、のちに新たに服属した人々を指すようになったという。漢字学者の白川静は、「民」の字の背景に支配関係の存在を指摘する。
「目」を傷つけられることで、ひとは何を失うのだろう。そんなことを考えている内に、20年前に繰り返し読んだ小説を思い出した。

村上春樹の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』には、壁に囲まれた街にたどり着いた「僕」が登場する。街の入口には門番がいて、もし街に入りたければ、まず影を切り離さなければならないと「僕」に告げる。
影は「僕」の話し相手であり、ときには意見を違えることもある存在だ。そんな影と「僕」は別れることを決める。
 影を切り離された「僕」は、これから就く仕事に必要だという理由で、門番から次いで目を傷つけられ、視力のほとんどを失う。
影と視力をなくした「僕」は、街で暮らし始める。街の住人たちは、それぞれに与えられた仕事を淡々とこなし、その日常はとても平穏である。間もなく「僕」もその生活に安心を覚え、日々に向き合うばかりになっていく。
あるとき、「僕」はこの街のひとびとが”こころ”を知らないことに気がつく。
そして同じ頃、このまま街にいれば、「僕」の”こころ”もやがては消えてしまうことを「僕」は知ってしまう。

この数年、「民」という字を含んだ言葉をあちらこちらで目にするようになった。「民」の字が意味するものが、影と視力をなくし、やがて”こころ”さえ消えようとしている「僕」と、どこか重なるように思ったのは最近のことだ。
「民」の字には、私も当然いる。そして「民」である私の目もまた、みんなと同じようにすでに何かで傷つけられているのかもしれない。
「民」の甲骨文字を紙に書いてみる。まず「目」を書く。それから、「目」を傷つけようとする刃物である線を書き入れる。一本の線を書き入れたとき、そこに痛みが伴わないことにはっとする。痛みもなく、知らぬ間に傷つけられた「目」が紙の上に残る。
傷ついた目で、私たちはこの先、なにを眼差すのか。かつて「民」の字をかたちづくった「誰か」から、今、そう問いかけられている気がしてならない。
(2017.11/2018.06加筆)


# by kasetsu_WS | 2018-06-13 20:27 | エッセイ|文字と眼差し | Comments(0)